余談ですが、私の通っていた公立の小学校では毎年クラス替えがありました。
しかも私は4年生までずっと2組で、このままずっと2組かな~なんて思っていたら5年生になって1組なりました。そして6年生はまた2組になりました。
オチはありません。
本題です。小学校中学年~高学年(4年生~6年生)の頃の記憶は結構薄くなってしまっているのですが、傾向として相変わらず活発な小学生で、体育は得意だったと思います。週1回のスイミングスクールは楽しみでした。
この頃までは劣等感はそんなに感じずに、元気な子どもだったのではないかなぁ、と思います。
海外、英語への興味が出てきたのはこの頃かなと思います。
小学校4年生の頃は学年が大荒れし、自分もいじめの加害者になっていたと思います。小学校5年生の頃は仲が良かった友達とのすれ違いで、その後絶縁状態に。後にも先にも友達や周りの人と喧嘩することは皆無と言っていいほどで、最近記憶が薄れていましたが当時は中学校卒業まではすくなくとも引きずっていたと思います。
また一つずつ書いていきます。
目次
海外、英語への興味のはじまり
きっかけは夏休みにやっていた【大好き5つ子!】というドラマで、この5つ子の一家のお家にオーストラリアからホームステイの子どもがくるというお話で、ここで刺激を受けたのは覚えています。
他の国の人と出会う、話す、コミュニケーションをとる。というなにかむず痒いような感覚を感じたり、新鮮さを感じたのだと思います。
そして5つ子の内のなかの、優しくて温厚な性格の【のんちゃん】。こののんちゃんが英語や海外に興味が出てきて、しかも中学か高校生に成長したのんちゃんは外見が変貌し、美人さんになったので素敵だなぁ、と思っていた記憶があります。
そして小学校4年か5年からはATLの先生が来て、恥ずかしがりながら Hlloと言ったりしていたと思います。
この経験から、海外の人と話してみたい。という気持ちや、ドラマに影響されて海外、特筆してオーストラリアに興味が出ていたのだと思います。
なぜオーストラリアだったのか?についてはATLの先生の国籍や、ドラマに加え
イルカやカンガルーやコアラ、ウォンバットなど綺麗な海に豊かな動物たちがいることを知ったからだと思います。自分の大好き!が詰まっています。
中でも、小さい頃から海とイルカが大好きだったのでこの二つが存在する場所というのはとりわけ特別感があったと思います。
そのオーストラリアには大学生になったころ留学先としても検討したのですが時期が合わず、34歳になる今もまだ訪れることができていません。
オーストラリア絶対行きたいです。行きます。
現代だと、保護者が子どもに早いうちから英語教育を!と思うと思いますし英語はできて損することはないので私も自分に子どもができたら外国語を、まずは英語を耳にする環境を作りたいなと思います。
英語学習が当たり前、英語は早くから学校で習うもの。に時代は変化していっていると思いますが
一方で、本人の興味とモチベーションが一番なので「英語を話せるようになりたい!」と興味を持つようなきっかけに繋がることを探せたらなと思います。
学年が荒れていた小学校 4年生 – いじめの加害者に –
4年生の頃は学年が荒れていて担任の先生はノイローゼで休職し、替わりの先生が来ました。
1組~3組と3つのクラスがありましたが、1組は平和だった記憶があります。
5年生では、厳しくもあり怖いなと思う先生が担任になった記憶があります。
4年生の頃は表現に最適ないい言葉が見つかりませんが
【人情味がないタイプのジャイアン】な同級生が何人かいて
【〇〇菌呼ばわりされるのび太くん】な同級生が何人かいる。
そして実際のジャイアンとのび太くんとは違って、両者は仲良くもなければ、絆でつながっていることはない。
そのような感じでした。
ドラマや漫画である、靴隠すとか机に落書きするとか、ノート破くとかそういう類のいじめは
私の知っていた限りではなく、当時は携帯もSNSも存在はしていたと思いますが小学生が使うような時代ではなかったので、SNS/ サイバーいじめもなく、とにかく荒れている。先生にも反抗する。事業妨害もある、というような学年でした。
私もクラスの特定の男子には、【〇〇菌!】なんて言っていたのでその時は自分が加害者になっていることも気づかないので恐ろしいですし、言われた側は毎日辛いし、酷いことをしていました。
後の中学生の頃に自分も男子から【キモい】と思われているだろうな、と思ったのは自業自得と今、この記事を書いていて思いました。
これは女性としてのコンプレックスに繋がっていったと思います。
参考:コンプレックス ① 女性として – 豊胸手術の決断 – – コンプレックスと劣等感 ~ 克服+自信への軌跡 (yunmipeacefulnowfuture.com)
今の自分もこれまでの自分の結果なのかもしれません。小学生だから許される。ということはないですし、そんな最低な自分の一面を受け止めて、「これからどう生きるのか」。自分の気づけていなかった一面が見つかりましたね。
小学校5年生 : 友人とのすれ違いから絶縁状態に
小学校5年生の秋に、仲良し3人組で隣の学区の文化祭に行く約束をしていました。
入口の校門が2つあったことを知らず、事前に待ち合わせの場所をどっちにするか決めていなかったので当日は会うことができず、どうしよう状態になりました。
たしか一人とは無事に会えたと思いますが絶縁状態になった彼女とは会えず
私はもしたしたら中に入っているのかも。と中に入り友人を探し、他の同級生も何人か見かけたので声をかけて【〇〇ちゃん見てない?】と聞いて回り
それでも見つからず、反対の門に行ってみても見つからず
当時は携帯電話はたしかガラケーのかなり初期のがあったと思いますが、小学生が持っている時代ではなかったので連絡をとることもできず、探しても探しても見つからないので、他の友人と一緒に回りました。
家に帰ってから、当時の連絡方法は電話やFAXで、なかでもFAXが流行っていたので会えなかった友人にFAXを送りました。
細かい内容は覚えていませんが、「会えなかったごめんね」「反対側にいたのかもしれない」ということと「他の友達を一緒に周りました。」と。
今思うとすぐに帰宅してその子の家に電話すればよかったと思います。
その子からの返信のFAXは、「自分は会えなくて帰ったのに、私が他の子と周ったのがショックだった」と。
そらそうですよね。
今の時代なら、携帯で連絡がとれますし、大人になった今であればもしかすると
会えなかったね~!ごめん!!!!また今度どこか行こう!!!!となるかもしれませんがある程度【仲良しグループ】化のある学校で自分だけ仲間外れにされたようで悲しいと思いますし、私だけ他の子と楽しんでいったと思うと腹が立つと思います。
その後にたしか学校で、たぶん机の中に入っていたかだったと思いますが私の顔が黒塗りにされた写真と手紙を受け取りました。
その後、謝っても許してもらうこともできず絶縁状態が続き翌年の6年生のとき、やっぱり仲直りがしたく直接は受け取ってもらえないので、共通の友人経由で誕生日プレゼントを渡してもらいましたが
また友人経由で手紙が帰ってきて「迷惑です、捨てました」と書いてあったと思います。
卒業式では、その子のお母さんから私に話かけてくださって、「ごめんね」と言いながら「写真一緒に撮ろう!」となりました。
私は内心うれしかったのですが、また性懲りもせず中学に入ってから友人経由でその子に手紙を渡したのですが、その返事は「お母さんが心配するので」とのことでした。
その後中学校2年生では同じクラスになってしまい気まずかったです。事業自得とは本当にこのことだと思いますし1回拒絶されているのにまた再チャレンジする自分は、どうしても仲直りしたかったのは罪悪感と、今生の別れはさみしい。と思ったからです。
後にも先にも、友人とこじれてしまったのは今のところこの頃だけで、友人と喧嘩することなんてこの1回ぐらいでこのブログ書くまで社会人になってから正直なところ忘れていました。
中学校の記事はまた別記事で書きますが、この頃が今まで活発だった自分の一つの転換期だったと思います。
まとめ
最小は小学校4年~6年生の間のこと書こうと思うとあまり思い浮かばず、そしてこのブログテーマのコンプレックスの克服という観点ではなにもなかったかもしれない。
そう思いましたが、書いていくうちにこの頃の自分は傲慢だったり、人傷つけていたり、酷い人間だったことに気が付きました。そして絶縁となった友人のことも時間とともに記憶が薄れていて、当時のやりとりや交わした手紙の詳細、当時どういう行動をとったかの細かい詳細までは覚えていませんでした。
時間の経過により、大人になり、忘れてしまうこともありますが自分のしたことで人を傷つけたことは忘れてはいけないと思いました。また同じことをして人を傷つけてしまうかもしれない。
なぜ海外や英語の興味をもったのか。きっかけは生活の中の小さなことでしたが興味を持ち始めたことはよかったです。人生のどん底時期に私を救ってくれましたし、これからも救われることが多いと思います。
今、会社の転勤により以前は東京勤務だったところ地元に帰ってきていますが
ずっとここに定住したいとは思わない。住むのは関東の方が合っていたかもしれない。と思うのですがその原因は親しい友人は関東に多いことがあったと思ってますが
別の原因の一つが、忘れかったり、背けたい過去がここ地元にはあるからかもしれないな。
自覚していない潜在意識のところにあるのかもしれないと感じました。
コンプレックスとは違う発見となりました。
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